宗教法人 養泉寺
お知らせ

2020年盆法要 および 戦没者追悼法要 報告と法話

お盆中の朝夕に盆法要を、また14日夕方からは戦後75年戦没者追悼法要をお勤めしました。暑い中、また出かけにくい中ご参拝いただいた方々、ありがとうございました。特に今年はマスク着用をお願いしていましたが、暑い中皆様ご協力くだり、感謝申し上げます。堂内の間隔をあけて並べた椅子や、回り廊下に置いた椅子に座り参拝していただきました。小学生のお子さまを連れて親子で参拝くださった方や、ご夫婦、親子で参拝くださった方々もいらっしゃいました。また、ご懇志をお送りいただいたり、お持ちいただいた方々のご芳名も法要時に拝読し、読経いたしました。遠方で来られない方のお気持ちも受け止め、心をこめてお勤めさせていただきました。お盆にあわせ、故人に、そして仏様にお気持ちをたむけてくださったことに謝意を表します。ありがとうございます。

今年は戦没者追悼法要もお勤めしました。施主が戦没者の兄弟、子ども、孫という方もいらっしゃいますし、施主から見て戦没者が祖父の兄弟にあたるという方もいらっしゃいました。戦没者をどういう人か知らない、どういう関係かわからないという方もお参りに来ていただき、もしくは気持ちをたむけていただきました。戦争を直接に語れる方が少なくなり先の戦争が遠くなる中でも、戦没者追悼法要を勤修できたことに感謝します。

日本はこの75年は直接には戦争していませんが、世界では戦火が絶えません。日本もいつまでも戦後であるという保障はありません。何十年後かに今の時代が『戦前』と呼ばれる日が来ないとはかぎりません。「平和は願えばなるものだと思っていました。でもそうではありませんでした。平和は私たちが作っていかなければならないものです」戦争体験を語り継ぐ活動をしていらっしゃる女優 吉永小百合さんの言葉です。

ご法話の中で前総代長の新井勇作さんから伺ったお話しを一部紹介させていただきました。新井さんは中国北部に赴き、終戦間際にはロシア兵が攻めてきたそうです。防空壕に逃げ込み、敵兵が来たら自決しようと体に爆弾をまきつけていました。あと二日終戦が遅かったら命はなかった、とおっしゃっていました。戦後シベリアに連行され、冬はマイナス40゜という凍傷になりそうな地で、レンガ造りなどの過酷な労働を強いられました。一度日本から迎えの船が来るからと港に向かったのに、いくら待っても船が来ずまたシベリアに戻らねばならないということもありました。シベリアに連行されてから3年たってようやく帰国の船に乗ることができました。氏家駅に着くと、お父さんが迎えに来てくれていたそうです。帰りの道々二人の兄たちのことを尋ねると、お父さんからの返事は「二人とも死んだ。」二人で泣きながら家まで帰ったそうです。長兄は激戦地ニューギニアで亡くなり、どういう最期だったかはわかりません。次兄は朝鮮の平壌で終戦を迎えました。次兄は生きて終戦を迎えたのに、仲間と自決して亡くなったそうです。私は最初、終戦時に起きていたのに帰国できなかったということは、敵兵か現地の人に殺されたのかと思いました。けれど、そうではありませんでした。「負けて日本に帰ることは恥だ」という気持ちから同じ隊の仲間9人と飛行機に乗り込み、操縦者が自ら墜落させて自決した、とのこと。たまたま飛行機に乗り遅れた隊員が生き残って、そのとき亡くなった人たちの家々を訪ね歩いて伝えてくれたそうです。「せっかく終戦時に生きていたなら、日本に帰ってきてほしかったのにね」と私が言うと、「戦争に負けて生きて日本に帰ることができなかった、そういう人は当時いっぱいいた」と新井さんは教えてくれました。召集令状が来たら「おめでとう」と言われ、出征の際には万歳三唱して送り出されます。「お国のために命を投げ出すことが美徳」とされ、「生きて帰ってきてほしい」などと言おうものなら「非国民」と言われた時代です。家族はどんなにか生きて帰ってきてほしかったろうにと、無念さに心痛み、改めて戦争ということを考えさせられました。  ‘ 戦争は戦火で人々の日常を奪うだけでなく、心まで支配し命奪うのだ ’ と。

『怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みの息むことはない。怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である』お釈迦様のお言葉です。(〔法句経〕より)

鉄砲は人をあやめます。仏法に遇って平和を作っていく世界になるようにと切に願います。